依存を抱えた主権の獲得
2026年7月16日、Noetra株式会社とNVIDIAは、国産のマルチモーダル基盤モデル開発に向けた国家規模のAI計算基盤を立ち上げると発表しました。Noetraは、ソニーグループ、ソフトバンク、NEC、ホンダの4社を中核に、IT、製造、素材、建設、モビリティ、金融、通信など国内大手44社が出資する基盤モデル開発企業です。経済産業省の大型事業(FRONTiaプロジェクト)の下、総額一兆円で初年度は3,873億円が投じられ、フィジカルAI向けで世界初を謳う国家規模のAIインフラの整備を進めます。この中核となるNVIDIA Vera Rubin AIファクトリーは、国内の代表的なAI計算基盤ABCI 3.0と比べて理論上のAI性能(FP8)で少なくとも30倍を超え、2027年4月から構築を開始、2028年6月の稼働を予定しています。規模感を示すと、運用よりも構築への配分が大きい初年度投資額だけでも、2025年の国内AIインフラ支出額の半分を上回る規模に相当します(IDC Worldwide Quarterly AI Infrastructure Tracker 2026Q1 Release)。
この基盤で開発されるのは、フィジカルAI向けの基盤モデルです。そのフィジカルAIが現実世界と接するインターフェースの一つが、ロボティクスです。昨今はヒューマノイドが注目されがちですが、ITの観点で本質的なのは、多様なロボティクス技術やエッジをつなぎ、最適化し、そこから得たデータを判断へと束ねることにあります。そこには産業競争力に寄与する大きな機会が広がり、具体化はこの基盤で何を生み出せるかにかかっています。
この発表に対し「世界初・国産・オールジャパン」と讃えるのも、「一社への依存」と切り捨てるのも本質を外しています。本件では、日本はフィジカルAI基盤の開発における計算の主権を外部に預け、計算とアーキテクチャの最先端はNVIDIAが担います。一方、民間44社がNoetraへ薄く資本参加し、現場データと実証フィールドを持ち寄り、日本は現場データとモデルの所有権を持とうとしています。純然たる自立でも従属でもない、依存を抱えた主権の先に、日本の挑戦があります。ただし、技術の利用が一層の依存となる場合も考えられます。与えられた枠組みに乗るだけでなく、どのように関係を構築していけるかも日本に問われていきます。さらに、主権の配分よりも成否に関わる肝心な問いは、この体制で本当に使えるものが作れるかどうかにあります。
肝心なのは「主権」ではなく「実行」
そこで、ここから先は実行にあたって現実を見る必要があります。国産基盤モデルSarashinaの主導者が経営を担い、同様にPLaMoを開発したプリファードネットワークスの経営者が共同研究開発の統括責任者としてモデル開発を率い、同社エンジニアが出向して実働することで経営と技術統括の両輪を担います。日本で基盤モデルをスクラッチで作れる希少な人材が指揮系統の中枢に入ることで、技術的な実行力が裏打ちされます。
一方でリスクもこの体制にあります。この基盤は、44社が自社の現場データを持ち寄って初めて動きます。しかし、各社にとって現場データは機密情報であり差別化要素。これを競合と同じ器に預けるには、どこに保管し、誰がアクセスでき、どう守るかというデータ管理とセキュリティの枠組みが必須となります。さらに、これをクリアしてデータを預けられたとしても、各社が供出の見返りに自社の都合をモデルに求め始めれば、ある社は自社製品への最適化を、別の社は自社ドメインの優先を望み、基盤モデルは「誰にとっても最適でない汎用」へと薄まる可能性があります。多くの声を退けて基盤を一本に保つ規律があるかが問われます。
成否は「どのように仕上げられるか」
この事業を測る指標は、GPUの数でも、国費の額でも、主権の有無でもありません。44社の個別最適の要求を調整し、基盤を一本に保つプロダクトマネジメントの規律を持てるかどうかです。技術的な実行力という必要条件は満たされています。残るは十分条件、つまり出資者の声から開発を守るガバナンスです。ここでは44社という数よりも、この体制の重心が実質どこにあるかが開発の方向を左右します。
開発のロードマップは、2026年度から推論基盤モデル、2028年度にオムニモーダル基盤モデル、2030年度に実世界ネイティブAI、という三段階で構成されています。この事業に規律があるかどうかは、まず2026年度に着手する推論基盤モデルが「何を作らなかったか」に表れます。規律により絞り込めるか、すべてを抱え込み方向を見失うか。また、フィジカルAIの実運用にあたっては、人命に関わる場合など、現実世界での検証に長い時間を要します。この慎重さとAIそのものの速い変化とをどう両立させるのか。時間もまた問われています。
今回の発表により、国内無二のAI計算基盤が2028年6月に稼働します。日進月歩のAIにおいて決して短くはないそれまでの期間で問われるのは、この体制でどのように舵を握り、モデルを作り上げていけるかです。そして、この試みが名に値する価値を生むかどうかの分水嶺は、44社が本当に自社の中核データを差し出すかにあります。中核データの提供範囲が十分でなければ期待された効果は限定的になる可能性があります。
もっとも、優れたモデルができることと国家事業としての成否は別です。これは結局のところ、参加する各社が、自社の現場で活用の道を見出せるかにかかっています。関与に濃淡があるのは自然なことである一方、避けるべきは、自社にとっての位置づけを定められないまま、中途半端に担ぎ続けることです。その時間が大きな機会損失になる恐れがあります。自社での活かし方に明確な答えを出せた企業から、フィジカルAIの競争で確かな位置を占めていくとみています。
著者:加藤慎也 シニアリサーチマネージャー、AI and Automation – IDC Japan
関連する調査やご相談について
より詳細なインサイトや市場動向については、当社アナリストへお気軽にご相談ください。
参考データ:
- 2026年 国内AIインフラおよびAI向けITインフラサービス市場動向分析:推論が主導する競争軸の転換: https://my.idc.com/getdoc.jsp?containerId=JPJ54233926
- Japan Digital Infrastructure Strategies: https://my.idc.com/getdoc.jsp?containerId=IDC_P43365